東京地方裁判所 昭和48年(刑わ)497号 判決 1976年3月23日
主文
被告人を禁錮八月に処する。
この裁判が確定した日から三年間右の刑の執行を猶予する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、日本航空株式会社に勤務し、同会社の国内路線の機長として航空機の操縦業務に従事していたものであるが、昭和四七年五月一五日午後五時ころ、東京都大田区羽田空港一丁目、同二丁目所在の東京国際空港第五一番スポツトに駐機中の同会社が運航・管理する福岡行第三六九便ダグラスDC八―六一型旅客機(登録番号JA八〇四六号)に機長として乗務し、同機に乗務員谷川岩夫ほか七名、乗客長谷川慶一ほか二四二名の合計二五一名をとう乗させ、同日午後五時二五分ころ、同スポツトから地上走行を開始し、C―一誘導路から左に一八〇度旋回しながらC滑走路(幅六〇メートル、長さ三、一五〇メートル、表面アスフアルト・コンクリート舗装)の南端部分にエンジンを加速しながら進入し、同日午後五時三四分ころ、右誘導路からの進入口南端から約一三〇メートルの地点でやや減速し自機を滑走路にその中心線上でほぼ正対させると同時に、各エンジンの回転計が最大出力回転数の八〇パーセントの状態にそろつたことを確認し、副操縦士による「スタビライズ」の呼称により、ブレーキを解除して離陸滑走を開始し、次いで各エンジンを最大出力にする操作をした。ところが、折からの降雨のため滑走路は湿潤し摩擦係数が低下した状態にあり、ことに中心線付近はタイヤ・ゴムの付着のために一層滑りやすい状態になつていたが、離陸滑走開始後も機首は左方への偏向を増し続け、これに第一エンジンの加速の出遅れがいくらかあつたことも加わつて、離陸滑走を開始してから約四秒後には機首の方向は離陸方向から左方約3.4度にも及ぶ偏向を生じ、かつ機首の位置も中心線から約2.5メートル離隔するに至り、被告人は遅くともこの時点までには左方への偏向に気づき、ラダー・コントロール・ペダルを踏み込んで前車輪を右に向けて偏向を修正する操作をし、しばらくその効果を待つたが、なおも左方への偏向が増すばかりで効果がなかつたため、ひきつづきステアリング・ホイールを用いて方向修正を加えようとした。このような場合、滑走路面が前記のように滑りやすい状態にあつたことに照らし、前車輪がスリツプするなどして前車輪による方向修正機能が失われているおそれが高く、したがつて、さらにステアリング・ホイール等を用いて前車輪による方向修正を図つても、ラダー・コントロール・ペダルによる場合と同様、奏効しないおそれが高いことが十分予想されるのであるから、機長としては、まずこの点を認識するとともに、前車輪による方向修正を継続するうちに、もはや自機を滑走路内で十分安全に停止させることができなくなるような事態を招くことがないよう十分留意すべきであるところ、被告人は、遅くとも離陸滑走を開始してから約七秒後には、少なくともラダー・コントロール・ペダルによる方向修正措置が効果を生じないことを認識しており、また、そのころには、自機の離陸方向からの偏向は左方約五度に増加しなおわずかずつ偏向を加えつつあり、中心線からの離隔も機首の位置ですでに約六メートル(主車輪の位置でも約五メートル)となり、機速も毎時約六〇キロメートルに達し、なお全エンジンを最大出力にして急速な加速を継続している状態にあるうえ、路面が湿潤状態にあるため制動距離も長くなつていること、制動時などにさらに左偏向が加わるおそれもあること、エンジン・レバーを操作してもエンジンは直ちにその状態へと変化せず、ある程度の時間を要することなどのため、このまま前車輪の操作により方向修正を継続するときは、自機を滑走路外に逸脱させる危険を招き、その結果機体を破壊し、または人身事故を生ずる危険があつた。したがつて、被告人としては、右時点のころ、前車輪がスリツプしていることなどのため前車輪による方向修正機能が失われているおそれにつき認識するとともに、他に自機の方向修正のための安全、確実な方法も存しない以上、自機が右のような状態にあることを考慮し、すみやかに全エンジン・レバーをアイドル(弱噴射)の位置にするとともに主車輪を全制動し、さらにエンジン・レバーをフル・リバース(全力の逆噴射)の位置にしてエンジンによる全制動を図るなどの措置を講ずることにより、滑走路外への逸脱を防止し、また万一逸脱することになつても低速で路外に進入し、滑走路端付近で停止することができるようにし、それにより機体の破壊や人身事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、右のように前車輪がスリツプ状態にあるなどの危険を十分意に介することなく、全エンジンを最大出力にしたまま、前車輪の操作により方向修正をなすことに固執し、それが効果を生じないことを知るに及んで、もはや右のような停止措置を講じても滑走路外への逸脱を避けられないと考え、これを避けるためには左右エンジンの出力に差を設けて機首の偏向を修正するほかはないとの考えのもとに、第一ないし第三エンジンを最大出力にしたまま、右端の第四エンジンのみをアイドル(弱噴射)にするようエンジン・レバーを操作し、しばらくして第四エンジン・レバーをさらにアイドル・リバース(弱力の逆噴射)の位置に瞬間的に入れるなどして方向修正を図つた過失により、滑走路内での左方への偏向の修正には成功したものの、ひきつづき急速に加速しつつある中で急激に右方への偏向を生じさせ、そのため前車輪および主車輪を右横方向にスリツプするに至らせて自機の操縦の統御が不可能な状態に陥らせ、ここに至り、ステアリング・ホイールにより前車輪を左に切るとともに全エンジン・レバーをアイドル(弱噴射)の位置にし、さらにアイドル・リバース(弱力の逆噴射)の位置にして自機の滑走路からの逸脱を防止しようとしたが及ばず、前記C滑走路進入口南端から約六三〇メートルの地点において、自機を時速約一四〇キロメートルで滑走路右端から滑走路外芝生上に逸脱させ、機首を左方に向けながら、約四〇〇メートルにわたり滑走路とほぼ平行に横すべり状態で滑走させたうえ、再び前記滑走路上に乗りあげさせて、その進入口南端から約一、〇二〇メートルの地点でようやく擱挫・停止するに至らせ、よつて、右離脱走行中または擱挫の際の衝撃により、左主車輪の脚部を折損させ、全エンジンを脱落せしめ、第四エンジン取付部から出火させて同機内を危険な状態におとしいれ、乗客らをして緊急に脱出することを余儀なくさせ、前記の衝撃または脱出の際の転倒等により、別表(一)受傷状況一覧表記載のとおり、長谷川慶一ほか一四名の乗客に対し、全治期間不明または同約三か月間ないし約一週間の傷害を負わせ、もつて業務上の過失により、人を傷害するとともに、航空機運行の業務に従事する者において、過失により航空機を破壊した。
(証拠の標目)<略>
(事実認定についての補足説明)
一本件事故機の航跡および離陸滑走開始後の各時点における速度については、日本航空株式会社運航技術部作成の「JA八〇四六航跡推定図」(以下航跡推定図という。)ⅡおよびⅢ(弁第三および四号証)の記載・表示が、証人肥爪義一および同佐竹仁の当公判廷における各供述により認められる作成経緯、ことに、これらがボイス・レコーダー、フライト・データ・レコーダー等の記録の解析にもとづくものであり、客観性の高いものであることが認められること、および司法警察員作成の昭和四七年五月一五日付、同月一六日付各実況見分調書により認められる事故現場の状況に添うものであること、その他関係証拠に照らして、ほぼ正確なものと認められ、また、各時点の機首の方位等については、笠松好太郎作成の「鑑定経過説明書」と題する書面添付の「航空機事故調査報告書」(以下「事故調査報告書」という。)付図4「フライト・データ・レコーダー、ボイス・レコーダー記録対照」と題する表の記載をほぼ正確な値として認めることができる。したがつて、以下主としてこれらの数値をもとに、関係証拠を総合して検討を加えることにする。
二まず、前車輪の方向修正機能がそのスリツプ等により失われているおそれがあつたことを、被告人は遅くとも離陸滑走を開始してから七秒後までの間に認識すべきであると認めた点につき説明を加えると、滑走路中心線上に位置して離陸滑走を始めた場合に、離陸方向から約三度それるに至れば、tan3°=0.052であるから、一〇〇メートル前方のものが約5.2メートル左右にずれるのと同じ状態であり、中心線からの機首のずれや、中心線方向の移動、遠景の動きなどから偏向の事実に当然に気づくものであることは、証人大形貢の当公判廷における供述にまつまでもなく経験上明らかというべきであるが、本件では、離陸滑走を開始して三秒後には左に約2.6度、同じく四秒後には左に約3.4度偏向するに至つたうえ、中心線からの機首の離隔も、右四秒後の時点では約2.5メートルに及んでいたと認められる。(これは、一秒ごとの平均速度にその間の平均偏角の正弦関数を乗じたものを〇秒時点から四秒時点まで合計し、これに機の重心から機首の位置までの距離((野原正久作成の「『ダグラスDC―8―61型航空機の概要』についての答申書」と題する書面により約二〇メートルと認められる。))に四秒時点での偏角の正弦関数を乗じたものを加えることによりおおよその値が得られる。すなわち、
となる。)そして、離陸滑走開始時およびその後しばらくの間は機を滑走路に正対させることが最も重要なことであるから、その間前方注視を怠つていたとは考えがたいし、被告人の当公判廷における供述等に照らしても、被告人は前方を十分注視していたものと認められるから、一時的に計器その他にも注意を向けていたこともあるにせよ、離陸滑走を開始してからほぼ四秒後には、左方への偏向に気づき、直ちにラダー・コントロール・ペダルを用いて前車輪による方向修正を図つたものと認められ、その操作は直ちに効果を生ずるものであるから、同ペダルを踏みその効果がないことを確認するには、二、三秒もあれば十分と認められる。したがつて、離陸滑走開始後遅くとも七秒時点においては、被告人はラダー・コントロール・ペダルによる方向修正操作が効果を生じないことにつき明瞭に認識していたものと認められ、このことは、さらに被告人がステアリング・ホイールによる修正操作を行なつたあと、第四エンジン・レバーをアイドルの位置に入れる操作をした時点が離陸滑走開始後約九秒時点であることが認められることからも明らかである。
ところで、事故調査報告書により認められるように、離陸滑走開始前誘導路を走行中に、被告人は二度にわたり滑走路逸脱につき話し合い、滑走路が湿潤し滑りやすい状態にあることを注意しあつていたことが、ボイス・レコーダーにも記録されている事実等に照らしても、ラダー・コントロール・ペダルによる方向修正が効果を生じなかつたことを知つた以上、明らかに異常が認められたのであるから、被告人としては前車輪がスリツプしている危険につき直ちに認識すべきであつたのであり、その結果生じうる滑走路外への逸脱を避けるための適切な方法を講じなければならなかつたものといわなければならない。
三そこで、離陸滑走を開始してから七秒以後の時点で、滑走路逸脱を避けるための措置として、偏向したままで判示のような急制動の措置をとつた場合に必要な制動距離について検討する。
(一) 主車輪の制動による摩擦力と減速との関係について
事故調査報告書等によれば、本件事故発生時には、小雨よりやや強い雨が降つており、滑走路は湿潤状態にあつたが、通常の雨天の場合に比べて特に異常な状態にはなかつたと認められ、また、前車輪が方向修正機能を失う程度にスリツプ状態にあつたとはいえ、機は機首方向に直進した状態にあり、主車輪のタイヤ痕等主車輪が横方向にスリツプした状態にあつたことをうかがわせる証拠もなく、したがつて、主車輪に制動をかければ、右のような湿潤滑走路上において通常生ずる程度の制動力を得ることができる状態にあつたものと認めることができる。
ところで、<証拠・略>を総合して以下検討すると、まず、
(1) 一般に、路面の摩擦係数は、湿潤路面では乾燥路面よりかなり低い値を示し、また速度との関係についても、その増加につれて摩擦係数が低下し、ことに湿潤路面では低下が著しく、路面の舗装状態等によつても異なる値を示し、ことに滑走路の場合、着陸接地・制動の際に生ずる溶融したタイヤ・ゴムの付着した湿潤路面では、その付着量が増加するにつれて摩擦係数が相当大幅に低下すること、
(2) 摩擦係数の測定値は、その測定方法によりかなりの差異があり、MLμメーターを使用した場合と高速道路試験車を使用した場合とを比べると、一般にMLμメーターによる測定値の方が高い値を示していること(調査研究報告書Ⅱ二一頁、同Ⅲ三〇頁および三三頁等参照)、
(3) さらに、航空機による減速実験の結果によれば、右の二つの測定方法のいずれよりもはるかに低い減速係数しか得られず、たとえば、羽田空港B滑走路北東端付近から五〇〇メートルないし七〇〇メートルの区間(同報告書Ⅲに「Eタイプ」路面として表示されている路面)で湿潤状態において測定した値についてみると、時速一〇〇キロメートルにおいて、MLμメーターでは0.35を、高速道路試験車によれば0.24をそれぞれ示すのに対し、航空機により得られた右速度に近い状態(進入時の時速約一一七キロメートル、離脱時の時速約六二キロメートル)における平均減速度は0.194となつていること(同報告書Ⅲ三〇頁、三三頁、三六頁参照、同様の事実は同四一頁の表によつても認められる。)、
(4) 航空機による減速係数と、MLμメーターや高速道路試験車による摩擦係数の測定値との間には、必ずしも比例関係にあるとはいえず、たとえば、MLμメーターによる摩擦係数の大きさの順序が、航空機により得られた減速係数の大きさの順序と一致しない場合があること(同報告書Ⅲ三二頁、三六頁参照。時速一〇〇キロメートルにおいて、「Aタイプ路面」につきMLμメーターでは0.54、実機では0.13となるのに対し、「Eタイプ路面」では、MLμメーターでは0.35、実機では0.19と逆転している。)、
(5) 航空機による減速実験では、初速度を変えても、減速度の大きさおよびその変化の状態に他の測定方法による程顕著な差異が現われず、類似した値や、グラフの形状を示す傾向がうかがわれること(同報告書Ⅲ三六頁、三七頁、三九頁参照)、
等の事実が認められる。
以上のような結果については、航空機の場合には残存するエンジン推力の影響、ブレーキに付されてあるアンチ・スキツド装置により生ずるブレーキの解除や機体に作用する揚力により機の重量がみかけ上軽くなることなどの影響など、複雑な原因によるものと考えられ、したがつて、本件事故機に作用する主車輪の制動による摩擦力を算定するについては、路面の状態から摩擦係数を推定する方法によるのではなく、右の航空機を用いた実験結果のうち、本件に最も適切と認められるものを基準とし、被告人に不利な結果にならないような計算方法によることが、結局のところ最善の方法であると認められる。
そこで、右の基準とすべきデータとして、調査研究報告書ⅡおよびⅢにあらわれた実験結果のうち、昭和四八年一一月一六日羽田空港B滑走路上の前記「Eタイプ」路面でB七二七―一〇〇型機(JA八三二〇機)を使用して施行された結果の中から初速度を63.1ノツトとして得られた減速状況を採用することとした(同報告書Ⅲ三四頁ないし四〇頁参照)。その理由としては、右掲記の証拠を総合すれば、
(1) 「Eタイプ」路面は平滑なアスフアルト・コンクリート舗装であつて、湿潤状態にしてあり、その点において本件C滑走路と同様の状態のものであること、
(2) 右「Eタイプ」路面は、前記のように、羽田空港B滑走路の北東端付近から五〇〇ないし七〇〇メートルの区間であり、その中心線付近にはタイヤ・ゴムの付着がかなりあり、実験値はその中心線付近を走行させて得られた値であるのに対し(もつともゴム付着の程度はC滑走路のそれぞれの位置における摩擦係数の差異、ゴム付着状況の差異から推定しても、北東端から三〇〇ないし五〇〇メートルの区間よりはゴム付着量は少ないと推定される。)、本件で制動の際通過することとなる路面のうち中心線に近い部分のゴム付着の状態は、右「Eタイプ」路面とほぼ同様の状態かそれに近い状態と推定されるが、司法警察員作成の昭和四八年二月一日付実況見分調書によれば、ゴム付着は中心線から幅約一〇メートルの範囲に濃く、一五メートルをこえる部分にはほとんどないことが認められ、摩擦係数は全体として右「Eタイプ」路面の方が小さいものと認めることができ、同路面における値を本件の計算に用いることは、滑走路逸脱の危険につき判断する関係ではかなり安全側(すなわち被告人にとつて有利な結果)になること、
(3) 右実験値は、本件での制動初速度(約三〇ないし四〇ノツト、毎時約五五ないし七五キロメートル)より相当大きな初速度(63.1ノツト、毎時一一七キロメートル)によるものであり、一般に摩擦係数は速度が大きくなるにつれて湿潤路面では大幅に低下することを考えあわせると、右の値を本件の計算に用いることは、同様安全側(すなわち被告人に有利な結果)になること、
などの事実が認められるので、これらの点を考慮したことによるものである。
そこで、右実験値につき、前掲「機上に於て測定した減速度“g”」と題する図表(これは調査研究報告書Ⅲ三七頁のグラフと同一のものであり、図表にCとあるのはEの、BとあるのはCの誤記である。横軸方眼一ますが0.5秒を示す。)から、「Eタイプ」路面での初速度63.1ノツトにおける減速係数につき、同路面に進入した時点以後の値を読みとれば、ほぼ次表のとおりとなる。
進入後経過時間(秒)
0~1
1~2
2~3
3~4
4~5
5~6
6~7
7~8
8~9
グラフより得られた減速係数
0.09
0.08
0.12
0.15
0.26
0.21
0.28
0.30
0.31
右減速係数の変化については、制動開始が進入と同時でなく、そのしばらく前に行なわれた可能性もあること等を考慮し、次式により時間の一次関数として(ただし0.3に達したのちは一定として)近似させるのを相当と認め、このようにすれば被告人に不利にはならないものと認める。
k=0.03t k:減速係数
(ただしt≧10ではk=0.3とする。)
t:制動開始後の時間(秒)
α=−k×g α:加速度(m/sec2)
=−0.03t×9.8 g:重力加速度
≒−0.3t(m/sec2)
(≒9.8m/sen2≒10m/sec2)
(ただしt≧10ではα=−3.0m/sec2とする。)
右の数値は少なくとも弱噴射の状態におけるエンジン推力による加速度を含んだものであるが、弱噴射状態での右加速度を本件事故機につき計算により求めると0.14メートル程度であるから、これを無視することとし(その分だけ摩擦による制動力を減殺しているのを無視するわけであるから、摩擦による制動力を過少評価することになるので、被告人に不利にはならない。)、なお空気による抗力も低速のため無視しうるので、右の減速度は主車輪の制動により生ずる摩擦力による減速度とほぼ同視することができる(なお、これには機に作用する揚力の影響も含まれている。)。
以上によれば、制動開始後の各時点における主車輪の制動による減速度(負の加速度)は次表のようになる。
時間(秒)
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
加速度(m/sec2)
0
-0.3
-0.6
-0.9
-1.2
-1.5
-1.8
-2.1
-2.4
-2.7
-3.0
-3.0
-3.0
(二) エンジンの前進推力および逆噴射による逆推力と減速との関係について
事故調査報告書(一一頁)によれば、エンジン・レバーを最大出力(離陸回転出力・マツクス・パワー)位置から急激に弱噴射の位置を経て、弱力の逆噴射の位置にし、かつ弱力の逆噴射の状態になるまでに、エンジン・レバーを操作し始めてから3.6秒ないし4秒を要することが認められるので、本件事故機において同様の操作をした場合には、エンジン・レバーを操作し始めてから約四秒で逆噴射の状態になるものと認めるのが相当である。したがつて、前進推力はエンジン・レバーを操作し始めてから約四秒間残存することになるが、「英文資料No.12」(「エンジン減速特性((JT―3D―3B))実機での測定結果」と題する図面)により、一秒毎にエンジンのEPR(エンジン圧力比)の値を求めると次表のとおりになる。
時間(秒)
1
2
3
4
EPR
1.20
1.13
1.10
1.075
次に、「英文資料No.11」(EPRと機速および推力の関係を表示した図表)の機速0.06マツハ(秒速約二〇メートル)以下の部分によれば、EPRが1.2の時、エンジン一基当たりの推力は約六、〇〇〇ポンドであることが認められる。EPRが1.2以下のときの推力についてはEPRが1.0の時の推力を零にして、その間の推力がEPRの値から一を差し引いた値に比例するものとして、右各時点のエンジン一基当たりの推力を推算すると、次表のようになる。
時間(秒)
1
2
3
4
EPR
1.20
1.13
1.10
1.075
推力(ポンド)
6,000
4,000
3,000
2,250
エンジン四基の推力の合計を求めると、
時間(秒)
1
2
3
4
推力合計(ポンド)
24,000
16,000
12,000
9,000
右各時点におけるエンジン噴射による加速度は、次式により求められる。
事故調査報告書(五頁)、および筧田充之の司法警察員に対する昭和四七年五月一五日付供述調書によれば、本件事故機の離陸滑走時の重量は二四万四、四三〇ポンド、すなわち約二四万四、〇〇〇ポンドと認められるから、前式により各時点のエンジンの前進推力による加速度を計算すると次表のようになる。
時間(秒)
1
2
3
4
加速度
(m/sec2)
1.0
0.7
0.5
0.4
エンジン・レバーを操作し始めて四秒後に逆噴射になるので、それ以後全力の逆噴射までエンジン出力を上昇させることとし、「英文資料No.7」により、各時点におけるEPRの値を求め、なお、野原正久作成の「『ダグラスDC―8―61型航空機の概要』についての答申書」と題する書面および証人佐竹仁の当公判廷における供述によれば逆噴射により生ずる逆推力は正の推力の約四〇パーセントであると認められることを考慮し、前記英文資料No.11により次式を用いて一秒毎の逆推力および減速度を算定すると、次表のようになる。
時間(秒)
4
5
6
7
8
9
10
11
12
EPR
※
1.03
1.16
1.27
1.37
1.46
1.54
1.61
1.68
1.73
エンジン1基あたりの正の推力(ポンド)
900
4,800
7,500
9,000
11,000
13,000
14,000
15,000
16,000
エンジン4基の正の推力の合計(ポンド)
3,600
19,200
30,000
36,000
44,000
52,000
56,000
60,000
64,000
同上逆推力
(ポンド)
1,440
7,680
12,000
14,400
17,600
20,800
22,400
24,000
25,600
加速度
(m/sec2)
-0.1
-0.3
-0.5
-0.6
-0.7
-0.8
-0.9
-1.0
-1.0
※英文資料No.12によれば1,075となる(逆噴射の関係では被告人に有利な値を採用する。)。
なお、エンジン・レバーを操作し始めた瞬間の加速度を、前記航跡推定図Ⅱの表から求めると、
離陸滑走を開始して七秒後から八秒後の間においては、
1,852(m)×(35.1−31.0)(ノツト)÷3,600(秒)≒2.1(m/sec2)
となり、右一秒間の平均加速度は約2.1メートルであり、同じく八秒後から九秒後の間においては
1,852(m)×(39.4−35.1)(ノツト)÷3,600(秒)≒2.2(m/sen2)
となり、右一秒間の平均加速度は約2.2メートルである。したがつて、離陸滑走開始後七秒時点でエンジン・レバーを操作した場合の同時点での加速度を2.1メートル、八秒時点で操作した場合のそれを2.2メートル、九秒時点で操作した場合のそれを2.3メートルと推定する(この値は離陸滑走開始後二ないし三秒の時点で、パワー・レバーを最大出力にいれたものとして、英文資料No.7およびNo.11により推算した値とほぼ等しい。)。
以上により得られたエンジン推力による各時点での加速度・減速度は次表のようになる。
時間(秒)
0
1
2
3
4**
5
6
7
8
9
10
11
12
加速度(m/sec2)
2.1*-2.3
1.0
0.7
0.5
0.4
-0.1
-0.3
-0.5
-0.6
-0.7
-0.8
-0.9
-1.0
-1.0
* 離陸滑走開始後7秒時点でエンジン・レバーを操作した場合が2.1,8秒時点の場合が2.2,9秒時点の場合が2・3となる。
**逆噴射になる直前が0.4,逆噴射になつた直後が-0.1の意味である。
(三) 制動距離の算定
右(一)および(二)から得た加速度(または減速度)を各時点ごとに合計すれば、制動操作開始後の各時点における加速度(または減速度)を概算することができ、その結果は別表(二)(3)欄のようになる。他方、前記航跡推定図Ⅱの表により制動開始時の速度をみると、離陸滑走開始後七秒時点では毎秒15.9メートル(31.0ノツト)、八秒時点では毎秒18.1メートル(35.1ノツト)、九秒時点では毎秒20.3メートル(39.4ノツト)と認められる(七秒時点と八秒時点との差が2.1メートルでなく2.2メートルとなるのは計算の際の四拾五入のためである。)。
ところで制動距離は速度が零になるまで、一秒ごとに進行した距離を合計することにより、これを得ることができるが、一秒毎に進行した距離は、その間の平均速度とほぼ等しいと認められ、また、一秒後の速度は、初速度にその一秒間の平均加速度を加えることにより概算できるので、右の方法にもとづいて、まず一秒ごとの平均加速度を別表(二)(4)欄のように算出し、これを用いて各時点の速度を算出し、その一秒毎の平均速度を求めて、その間の進行距離を概算すると、別表(二)(5)ないし(10)欄のようになる。その結果、制動距離は、
(1) 離陸滑走開始後七秒の時点で判示のような急制動の措置をとつた場合には、約一三〇メートル
(2) 同八秒時点では、約一五五メートル
(3) 同九秒時点では、約一八〇メートル
となる(もつとも、本件では主車輪による制動力をかなり小さめに計算しているので、実際の数値より大きな値になつているものと考えられる。)。
四次に右各時点の重心位置(主車輪の位置もほぼ同じ)から滑走路逸脱に至るまでの残距離につき検討する。前記事故調査報告書付図4によれば、離陸滑走開始後七秒ないし九秒時点の段階では、偏向の増加の程度は次第に減少しつつあつたとはいえ、なおわずかながら左偏向を加えつつある状態にあつたことが認められ、また急制動の措置をとることにともない、さらに左にある程度偏向を加える可能性も考えられるところ、左への偏向を増しつつ進行し滑走路から逸脱することとなると仮定した場合の逸脱地点と制動開始地点とを結んで得られた方位の離陸方向からの偏角を考えた場合、右偏角については、離陸滑走開始後の偏向の程度およびその変化の状態等に照らして判断すると、右いずれの時点においても八度を超えないものと認めるのが相当であり、したがつてその大きさをいずれも最大八度にとることにより制動開始地点から逸脱地点までの直線距離を算定する方法で残距離を計算すれば、本件において被告人に不利にはならないと認められる。右の偏角を八度とした場合に、逸脱地点まで弧状の軌跡を描いて進行するものとして推定すれば、制動開始時点の偏角が五度前後であるため、逸脱地点での偏角は約一一度前後に及ぶことになることから考えても、右の偏角を超えることはないものと認めることができる。前記航跡推定図Ⅱによれば、右各時点における滑走路端までの垂直距離は右七秒時点では約二五メートル、同八秒時点では約23.5メートル、同九秒時点では約二二メートルと認められるのでこれを八度における正弦関数(sin8≒0.139)で除することにより、右残距離を計算すると、
(1) 離陸滑走開始後七秒時点で制動措置をとつた場合の残距離は、約一八〇メートル、
(2) 同八秒時点では、約一七〇メートル、
(3) 同九秒時点では、約一六〇メートル
となるが、これらはいずれも最も左に偏つたと仮定した場合で、逸脱地点までの距離のうちの最短の場合の値になる。
そうすると、右七秒時点で制動を開始したとすれば、右に仮定したような状態にまで偏向が増加したとしても、なお約五〇メートルの余地を残していることになり、滑走路内で十分停止しうることが明らかである。また八秒時点で制動した場合でも少なくとも約一五メートルの余地を残す状態で停止することになる(ただし、前車輪はわずかに滑走路外に出る可能性がある。)。さらに九秒時点で制動した場合には、右のような状態にまで偏角が増加した場合については逸脱の危険を生ずることになるが、仮に逸脱が生じたとしても逸脱の速度がかなり低く、かつほぼ機首方向に逸脱するのであり、機体に与える衝撃等も横すべり状態等で逸脱する場合と異なり低速では小さいということができ、また、停止地点における、滑走路端から主車輪の左端または前車輪までの垂直距離は、せいぜい数メートル以内にすぎず、司法警察員作成の昭和四八年二月七日付実況見分調書によれば、滑走路端から約三九メートル左方に滑走路と平行して走る排水溝の存在が認められるが、それより滑走路寄りには危険を生ずるに足る程度の構造を有する障害物の存在は本件全証拠によつても認められず、右の程度の逸脱が仮に生じても事故発生に連らなることはないと認められる。
いずれにせよ、被告人が前車輪のスリツプのおそれに遅くとも気づかなければならなかつた右七秒時点ですみやかに判示の急制動措置を講ずれば、滑走路内で十分停止しえたことは明らかである。
もつとも低速でフル・リバースを使用するときは、エンジン・ストールを生ずることがあり、その場合にはエンジンをいためる危険性があることが被告人の当公判廷における供述等により認められるが、おおよその停止位置は日ごろの操縦経験や訓練の結果として、ある程度の幅をもつて認識すべきであつても、正確な停止位置まで知ることは困難であるため、滑走路逸脱による人身事故や機体の破壊等の結果発生の危険が生じている緊急時には、後記のように他に安全確実な対処方法がない以上、かような操作を行なうことが最短距離で停止する必要上やむをえないものとして許容され、かつ要求されているものというべきである。
なお、右離陸滑走開始後七秒時点で急制動の措置をとるが、逆噴射はアイドル・リバースにとどめた場合についても、右の措置をとり始めて四秒後には逆噴射の状態になつて前進推力を消滅させうるから、それ以後は主車輪による制動のみが作用するものとして前同様の方法で制動距離を概算すると、約一四五メートルとなり、フル・リバースにした場合に比べ約一五メートル制動距離が延びることになるが、これによつても滑走路内で十分停止することができると認められる。また、エンジンを弱噴射にするのみで逆噴射を使用しない場合についても、そもそも主車輪による制動につき検討した際に用いたデータが、少なくとも弱噴射状態における前進推力を含んだものであることを考えると、制動距離は右の値とほとんど異ならないものと推定することができ、離陸滑走開始後七秒時点で制動を開始する場合にはかような方法によつても滑走路内で停止しえたものと認めることができる。
さらに、被告人がラダー・コントロール・ペダルによる方向修正の効果がないことを知つてステアリング・ホイールによる修正を試みようとした際、少なくとも同時に、加速を抑制するためエンジンを弱噴射にする操作を行なうべきであつた。かような操作は離陸滑走開始後遅くとも七秒時点において行なうことができたのであり、その四秒後には逆噴射が可能であり、また被告人が第四エンジン・レバーを弱噴射の位置に入れたと認められる離陸滑走開始後九秒の時点付近で主車輪に全制動をかけることができたものと認められるから、前同様の方法でこの場合の制動距離を概算すると、別表(三)のようになり、その結果制動距離は離陸滑走開始後七秒の地点から約一六五メートルと認められ、滑走路内でほぼ停止しうることになる。
このように、滑走路からの逸脱の危険が予見されるときには、とにかく加速の抑制を早目に図ることが肝要である。また、前車輪がスリツプ状態になつて方向修正が不可能な状態にあつてもほぼ直進に近い状態で進行しているかぎり、減速すれば、滑走路の路端に近い部分はタイヤ・ゴムの付着もなく摩擦係数も相対的に高くなるから、機が滑走路端に近づいてゆくにつれて、前車輪による方向修正機能も回復し、機首を滑走路方向にたてなおすことができる可能性も十分生じたものと考えられ、そのようにして逸脱を避けうる可能性も決して小さくなかつたということもできるのである。
五以上のように客観的には制動措置をとることにより滑走路内に停止させることができ、万一滑走路から逸脱することになつても人身事故の発生や機体の破壊の結果発生を防止することが可能であつたと認められるのであるが、被告人がこの点につきどの程度正しく認識すべきであつたかについてさらに検討する。
被告人は当公判廷において、ステアリング・ホイールにより方向修正を図つても効果がなく、制動措置を講じてももはや滑走路外に逸脱して機体の破壊や人身事故を発生させることになるのは避けがたいと判断し、第四エンジン・レバーを弱噴射の位置に引いたとの趣旨の供述をしているが、かような操作を行なつたと認められる離陸滑走開始後九秒時点のころには、被告人が位置していた機首の部分は、滑走路の中心線から九ないし一〇メートル左方に至り、中心線から滑走路左端までの幅の約三分の一にあたる離隔を生じ、かつ最大出力で急速に加速中であつたこと、急制動の措置によりどの程度の制動距離を必要とするかの判断については、訓練の際の体験や着陸制動時の経験その他を総合して行なうことができるが、加速中であることやとつさの場合であるために、その判断がかなりの幅のあるものになることは避けられないこと、前記のように滑走路左端から三九メートルの地点を滑走路に平行して走る排水溝の存在やそのおおよその位置については、日ごろ右滑走路を頻繁に使用している者として認識していたといわざるをえず、それが少なくとも滑走路左端から相当離れた位置にあることは認識していたものと認められるが、その正確な位置については知らなかつたことがうかがわれることなどの点を総合して判断すると、被告人が右のような危険があると判断したことについては一応首肯しうるとしても、それより二秒前の、遅くともステアリング・ホイールによる修正を試みようとした前記七秒時点では、機首の位置は中心線から左方約六メートルの地点にあり、中心線から滑走路端までの幅の約五分の一程度にとどまつており、未だ離陸滑走を開始したばかりであつて、着陸後や離陸滑走開始後相当の時間を経過したような高速の状態における右程度の離隔が生じた場合とは事情を異にし、機速も道路上の自動車の最高速度とほぼ同じ毎時約六〇キロメートル程度にとどまつていたこと、したがつて、滑走路逸脱を生じうるまでの残距離についても偏向の程度および右機速に照らして滑走路内で停止することができる状態にあり、万一滑走路外に逸脱することになつても滑走路端付近において十分安全に停止しうる状態にあつたことは少なくとも知りえたものと認められるから、この時点でも、被告人が急制動の措置によつては滑走路逸脱による機体の破壊や人身事故を回避できないものと考えたとは到底思われず、また右の措置をとればこれを回避しえたことにつき当然認識すべきであつたといわなければならない。
ところで、ラダー・コントロール・ペダルを用いて行なつた方向修正が効果を生じないとき、さらにステアリング・ホイールを用いて修正を加えようとすることは機長としてごく自然のことで、そのような操作に及んだことについてはやむをえないものであり、これを誤りということはできないとの見解もあろうが、前記のとおり、ラダー・コントロール・ペダルの操作の結果から直ちに前車輪の方向修正機能が失われているおそれを知りえたのである以上、ステアリング・ホイールによる方向修正もやはり前車輪による方向修正操作であるから、ラダー・コントロール・ペダルによる場合と同様効果を生じない結果になるおそれが高いことについては当然認識することができたはずであり、また認識すべきであつたといわざるをえず、したがつて、ステアリング・ホイールによる修正操作をさらに行なうことは、それが効果を生じないことを知ることができる時点においてもなお滑走路内で機を停止させうるのに十分な余地を残していると認められる限りにおいてのみ許されるにすぎず、そのような措置をさらにとることにより、滑走路外に逸脱する危険を生ずるものと被告人において判断せざるをえないような事態に機を至らせることは許されないものといわなければならないのである。
以上のように解することは被告人に決して難きを強いるものではない。被告人は機長として多数の人命を預る者であり、かつ機体の安全を維持する責任を負う者であるがゆえに、右のような細心の注意をはらうのは当然であるのみならず、ラダー・コントロール・ペダルによる方向修正の効果があらわれなかつたことは、通常の事態でなく、すでに明らかに異常な事態であるといわなければならないからである。そのうえ、離陸滑走開始後七秒時点においては、機首の中心線からの離隔は前記認定のように約六メートルに達し、偏向の程度も約五度に及び、偏向したまま進行する状態にあつたのであつて、この点においても通常の事態ではなく、異常な事態にあつたものというべきであるからである。したがつて、他に安全、確実な方向修正の措置をとることが被告人に期待しうるのならともかく、後記のようにそれが困難と認められる以上、かような場合にはすみやかに判示のような制動措置を講ずることにより機を停止させ、右のような事故発生を防止すべき注意義務を負うものといわなければならないのである。航空機のように事故が発生すれば、極めて重大な結果になることが多い交通機関の操縦に従事する者には、安全確保のための高度な注意義務が課せられており、十分の安全を考え、早目に措置をとるべきことが要請されているのである。
六そこで最後に、右のように急制動により機を停止させる以外に、安全かつ確実に滑走路逸脱による事故の発生の危険を防止する方法が他にあつたか否かにつき検討する。すなわち停止措置をとらないとすれば、方向修正を図る以外にはなく、そのための方法としては被告人が行なつたような左右のエンジンの推力に差を設けて、それにより機体に回転力を与えることが考えられるが、証人樋口禮治および同肥爪義一の当公判廷における各供述を総合すれば、かような方法は地上滑走中には車輪の摩擦力の状態により効果が左右されるうえ、推力に差を設ける措置をとつても効果が生ずるまでにある程度の時間を要する関係で、一定の修正効果を得るための適切な差の大きさや、かような差を設けておく時間の長さを知ることが容易ではなく、効果がすぐあらわれないことから修正過度に陥りやすく、また急激な方向修正を生じて、そのためさらに、横すべりを生じさせ機の運行統御を不可能ならしめる危険を招くこともあるので、これを適確に行なうには相当高度の熟練を要し、通常の経験・技術をもつて適切にこれを行なうのは困難であることが認められる。したがつて、かような措置は他にとるべき手段のない緊急やむをえない場合にのみ許される方法といわなければならない。ことに本件のように最大出力で加速しつつあり、かような措置をとるうちに機が高速で進行することになる場合には、適切な修正に成功しなければ重大な結果を発生させることになりかねない。したがつて、本件において機を停止させる方法で前記人身事故等の結果発生を回避しうる限り、かかる措置を講ずるほかに安全・確実な方法はないというべきである。本件では判示のように右方への急激な偏向を生じさせて、機全体を横すべり状態に陥れたのであるが、前記のようにエンジン推力に適切な差を設けることによつて右の結果を避けるべきことを被告人に期待しがたい以上、もはやこの段階では事故発生を回避することを被告人に期待することはできなかつたものというべきである。
以上によれば、被告人に判示の過失があつたことは明らかであるといわなければならない。
(法令の適用)
被告人の判示所為のうち各業務上過失傷害の点は、それぞれ、行為時においては、刑法二一一条前段、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法二条一項、三条一項一号に、裁判時においては刑法二一一条前段、右改正後の罰金等臨時措置法二条一項、三条一項一号に、航空機を破壊した点は、行為時においては、昭和四九年法律第八七号航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律附則二項による改正前の航空法一四二条二項、一項に、裁判時においては、航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律五条二項、一項に該当するが、いずれも犯罪後の法律により刑の変更があつた場合にあたるから、刑法六条、一〇条により、それぞれ軽い行為時法の刑によることとし、以上は一個の行為で一六個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪とし、刑期、犯情の最も重い別表(一)番号(1)の長谷川慶一に対する業務上過失傷害の罪の刑(ただし罰金刑の多額については航空法違反の罪のそれによる。)により処断することとし、所定刑中禁錮刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を主文の刑に処し、同法二五条一項を適用して被告人に対し主文掲記の期間右の刑の執行を猶予することとし、訴訟費用については刑訴法一八一条一項本文により被告人にこれを負担させることとする。
(量刑の理由)
本件事故は、滑走路も湿潤状態にあり、離陸滑走開始直後から徐々に偏向を加えつつあつたので、離陸滑走開始時に生じやすいスリツプの危険を予見することは比較的容易であり、ラダー・コントロール・ペダルによる方向修正の効果が生じないことが判明した以上は、前車輪がスリツプ状態にあり、方向修正機能が失われているおそれがあることにつき明瞭に認識すべきであつたうえ、さらにステアリング・ホイール等による方向修正操作を続けるにしても、安全確保のかなめともいうべき加速を抑制するためのエンジン操作は少なくとも行なうべきであつたのに、方向修正に気をとられているうちに、制動措置によつては滑走路逸脱による事故の発生はもはや避けられないと判断する結果となり、加速状態のままでエンジン操作による方向修正を図る措置をやむなくとることとなつて、そのため滑走路外右側に高速で逸脱させたことによるもので、離陸滑走を開始してまもなくの未だ低速の状態における措置が問題となつたものであつて、さほど難しい判断を要求される場合ではなかつたというべきであり、したがつて被告人の過失は大きいというべきである。なお、エンジンを加速する初期の段階で第一エンジンの出遅れが重なつたことは被告人にとつて不運というべきであつたが、このようなことがありうることも予見しうることであつた。
他方、発生した傷害や破壊の結果も重大であるといわなければならず、本件事故機の修理費として約一五億円を要しているが、ただ、これだけの規模の事故になりながら、人身に対する被害が判示の程度にとどまつた点は、まことに幸いであつたというべきであり、火災の危険が高く、本件でもし火災がエンジン等の部分にとどまらなければ大惨事になつたことも予想されるのであるが、被告人が、これを防止するための措置をも含め、事故後被害を最小限にくいとめるための措置を誤らなかつたこと、機長として未だ危険の去りやまぬ機内に最後までとどまり、機内に残つている者がないかを慎重に点検するなどの措置をとつたことなどの点は、量刑にあたり十分考慮すべきものと考える。
以上の諸点その他一切の事情を考慮し、被告人を主文の禁錮刑に処したうえ、その刑の執行を猶予するのを相当と認めた。
(鬼塚賢太郎 小出錞一 和田朝治)
別表 (一)ないし(三)<略>